正法寺の閻魔堂
見どころ
正法寺の本堂向かって左側にありますのが閻魔堂です。
いつから閻魔堂が存在していたのか?は火災によって資料の大半が焼けてしまったので明らかではありませんが、新編武蔵風土記稿(文化・文政期)の正法寺の項にはすでに「閻魔堂」の記載があり、それ以前から正法寺にあったと考えられます。
建物は現在の本堂を建造した際に旧本堂を移築したもので、平成二十七年に祭禮技術研究所の閻魔大王台座調査が行われ、閻魔大王台座下に「旧本堂の内陣。外陣を移転改築と閻魔大王を改装して安置す、維時昭和四十八年十一月吉日 現住職 岩田宗純代」と書かれた木札があり、移築されたことを示しています。
元々の本堂は、同じ越生町龍ヶ谷の龍穏寺さんの坐禅堂の移築と伝えられています。
移築時期は不明ではありますが、明治17年の火災の後ではないかと考えられています。
よって 龍穏寺坐禅堂 > 正法寺本堂 > 正法寺閻魔堂 という流れで今に至るということになります。
閻魔堂、正面扁額に「真龍窟」と窟号、「正四位山岡鐵太郎書」とある通り、当山山門と同じ、山岡鉄舟の揮毫です。
閻魔堂内には閻魔大王の木像と大黒天の木像が鎮座しており、壁の漆喰にはコテ絵が施されております。
壁のコテ絵に銘はございませんが、これとは別にコテ絵で作られた額が残されており、そちらには「明治二十二年十月吉日納」「漆喰細工 左徳」「埼玉縣入間郡越生町大字越生 左官職 田島徳三郎」と銘があります。
作風も似ていることから同じ作者の手によるものと考えられます。
また伝承で本町に左官職で田島さんという方がいらしたと正法寺に伝えられており、明治三十五年の「埼玉縣営業便覧」の越生町の項を見ると下町(本町)の如意横丁に「左官職 田島徳太郎」との記載がありました。
恐らくコテ絵を描いた田島徳三郎さんの縁者の方と思われます。
閻魔大王座像
正法寺の閻魔大王座像です。
嘘をつくと舌を抜かれると一般的には怖いイメージのある閻魔様ですが、仏教では閻魔様は地蔵菩薩様の化身とされ、大変慈悲深い仏様です。
当山、正法寺の閻魔様は舌を出しているのが特徴で、全国でも例の少ない表情をしています。
木像で製作年代は不明。
昔はこの閻魔大王を縁日で担いで廻ったと言われていますが、中はくりぬいてある内刳りがされているとはいえ、かなりの重量があり大人数を要したと考えられます。
一木造りではなく頭部と胴体は差し込み式で分割できる構造です。
また、閻魔大王像の台座として使われているのが、天王様で曳き出される越生町新宿の山車(現在は屋台)の盛留と呼ばれる人形台座を流用したもので、文政十年に八王子で製作されたと思われる貴重なもの。
地元では使われなくなった人形台座を当山正法寺に納めたという伝承があり、この閻魔堂の台座が新宿の山車に使われていた人形台座であることが確認されました。
資料的価値のある大変貴重なものであります。
この台座の下に空間があり、そこに木札が収められており、先述の閻魔堂が旧本堂の移築である旨が書かれていました(写真)
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