▲現在の桜の木のある場所に移築された当時の正法寺の山門。ここから更に現在の位置まで移築しました。
「新編武蔵風土記稿」の中の正法寺
「新編武蔵風土記稿」(文政13年頃)によれば、
大慈山ト號ス天正十九年寺領十石ノ御朱印テ附セラル臨濟宗鎌倉建長寺ノ末ナリ寺僧ノ傳へニ開基ハ將軍尊氏ニテ佛壽禪師ヲ開山トナセリ佛壽ハ文和三年二月十八日化ストス按ニ僧石室カ撰ヘル鎌倉長壽寺開山古先印元和尚ノ行状ニ武州正法ヲ剏建ストアリ正法ト云ハ當寺ノコトニヤモシ當寺ナランニハ佛壽ヲ開山トスルヿ(事)イカガハアラン或ハ印元創セシナレト已ニ其處ニヲラズシテ佛毒ヲ請テ開山トセシモ知ヘカラス又寺賓ニ心經ノ木版アルニ由レハ古ハ眞言宗ナリシニヤ本尊十一面觀音ヲ安ス
とあり、天正十九年(西暦1591年)に幕府から寺領十石の朱印状を拝領していることが分かります。
開基は足利尊氏で、開山が佛壽禪師。
寺宝に般若心経の木版があるので往古は真言宗だったのでは?と書かれています。
また本尊は十一面觀音だったようですが、現存していません。
寺宝については、
寳物 般若心經木版
甚古色ノ物ナリ前面ニ漢人ノ馬ヲ率タル像及ヒ經文ヲ刻シ裏面ニ大慈山ト大書シ傍ニ正法寺造營勸進ト鐫刻セリ
宝物として般若心経の木版。前面に漢人が馬を曳いている像と経文が刻まれ、裏面には大慈山と大きく書かれ、正法寺が造営されたときに勧進と刻まれていたようです。
觀音堂
丸木ノ柱ヲモテ造レリ最古色ノ堂ナリ相傳ヘテ大同年中ノ建立ノヨシイヘトオホツカナシ
鐘樓
延享五年七月鎔造ノ錦ヲカク
観音堂の存在も記載され、堂宇の中では、「最古色ノ堂」とされ、もっとも古く大同年中( 西暦806年~810年)の建立との伝承ですが、真偽は定かでは無いようです。他に閻魔堂と天神社の存在が記されています。
また正法寺の数少ない資料に「正法寺景況絵図面」があります。
正法寺景況絵図面に見る明治十六年の正法寺
所蔵/越生町教育委員会
解説
過去何度かの火災と明治十七年の火災で建物や資料の大半を焼失してしまった正法寺ですが、この「入間郡越生村 正法寺景況絵図面」は、その1年前の明治十六年の状況を知る大切な資料です。
越生町教育委員会所蔵の、この資料によって正法寺とその周辺の当時の越生町の様子を知ることができます。
当山、正法寺の部分を拡大しますと、本堂をはじめ、古堂、エンマ堂、カネ堂、通用門、表門の存在が確認できます。その他、小さな建物があり、これが何かは記載がありません。
当ホームページの見所の項に記載致しましたが、明治三十五年の埼玉県営業便覧の正法寺に関する記述、「正寶寺 市街の西、高取山の麓に在り、禪宗臨済派に属し、鎌倉建長寺の直末なり、貞和年間足利尊氏の創建にかかり、佛壽禪師の道場にして堂宇は左甚五郎の手に成れりと傳へられし…」とあるように、この絵図面の建物は彫刻師として名高い左甚五郎が関わっていたものと考えられます。
火災によって焼失した、今は無き鐘楼(カネ堂)が存在し、隣にはすでにエンマ堂が存在しているのも興味深いところです。
通用門は現在は存在しておらず、表門も現在とは違う位置にみえます。
位置関係の違いに関しては「越生昔がたり 新井雄亮著」の「正法寺の火事」の項に「その当時の本堂は南向き、今の本堂は東向きに明治二十三年に再建されている。」とあり、恐らく表門の向きは現在と同じ東向きで本堂は現在の書院側に南向きに建っていたと考えられます。
また、表門に当たる現在の山門は伝承によれば、地蔵横丁の地蔵堂の所にあったとされ、その後、本堂前の桜の木の所に移築、更に現在の山門の場所に移築されて現在に至っております。
地蔵堂といえば、この絵図にも正法寺から下った丁字路の角に「地蔵堂」との記載があります。
この絵図面では山門の存在は確認できませんが、隣りの丸い石碑のようなものは、「正法寺山門左に、明治十年の卒業者氏名を記した石碑 ※先述「越生昔がたり」より」と書かれている石碑で、現在は桜の木のところにある「生徒名簿」の石碑の可能性高いと考えられます。
現存する石碑には台座の円柱に「生徒名簿」と、銘文に「功成累徳禅 大慈寂光圓 永護持正法 敎童結良縁」と刻まれています。
この石碑は正法寺が学校だった時期の卒業生の名簿が刻まれた記念碑です。
そして、この位置にあった地蔵堂は現在では正法寺境内の桜の木の袂に移築されて現存しております。
絵図面には当時の正法寺住職、廿八世 弘堂碩彝和尚の名(今泉弘堂)が見えるのも当山としましては貴重な資料です。