埼玉県越生町の正法寺の山門には山岡鉄舟揮毫の扁額が掲げられています。

山岡鉄舟揮毫の扁額 - 埼玉県越生町の正法寺【公式】

山岡鉄舟揮毫の扁額


みどころ
当山、正法寺の山門には一刀正伝無刀流の開祖で、幕末の三舟のひとりとして有名な山岡鉄舟が揮毫した扁額が掲げられています。





幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)に名を連ねる、山岡鉄舟の揮毫した扁額は当山の見所です。
山岡鉄舟は、天保7年6月13日に旗本である小野家に生まれ、小野家での名は小野鉄太郎高歩(タカユキ)。父親は小野(朝右衛門)高福(タカヨシ)、母親は磯女。
後に高橋泥舟の兄であり、槍術の師でもある山岡静山(文政12年生)の妹、英子(フサコ)の婿養子となり、家督を継いで山岡姓を名乗ります。

江戸城無血開城の立役者としても知られ、徳川慶喜に命じられ西郷隆盛との交渉役を務め、その後の勝海舟と西郷隆盛との会談へと繋がっていきます。



山岡鉄舟と正法寺との縁


 

山岡鉄舟の実家である小野家の知行の地が埼玉県小川町木呂子ということもあって、小川町木呂子に良く訪れていたと言います。
正確な記録はありませんが、小川町を訪れた際に参禅した寺のうちの一つに当山があったのではないかと思われます。

山岡鉄舟は13才の頃から禅学に興味を持ち、禅寺を参禅して回ったということもあって、当山には「鉄舟先生在畄記念」の碑があります。
これは越生町にある河田屋菓子舗の新作最中に当山に在畄中だった山岡鉄舟に店主であった横田氏が名づけを依頼し「末広最中」と名前を付けた事に対する御礼の碑で、近年まで「鉄舟ゆかりの末広最中」として販売されていました。





もう1つ、閻魔堂の扁額も山岡鉄舟の揮毫によるもので「真龍窟」と窟号、「正四位山岡鐵太郎書」「山岡高歩(やまおかたかゆき)落款」「鉄舟居士(てっしゅうこじ)落款」とあります。
こちらは漆喰で作られた額に書かれています。
正法寺にお越しの際は是非、ご覧ください。


山岡鉄舟の揮毫と落款


また当山が明治16年に火災に遭った際、山岡鉄舟が書をたくさん書いて売り、復興のための資金を作ってくれたと云われており、山門の扁額は、その頃書かれたものなのかもしれません。
さて、その山門に掲げられた扁額は、右側から「雪上相霜:落款」「正法禅寺」「正四位山岡鐵太郎書」と書かれ「藤原高歩(ふじわらたかゆき)落款」、「鉄舟(てっしゅう)落款」と入っています。
残念ながら山岡鉄舟直筆の書は現在伝わっておりませんが、能筆と言われた山岡鉄舟の息遣いを運筆から感じることが出来ます。
拡大写真は山門扁額の「正四位山岡鐵太郎書」「藤原高歩(ふじわらたかゆき)落款」「鉄舟(てっしゅう)落款」の部分と、閻魔堂扁額の「正四位山岡鐵太郎書」「山岡高歩(やまおかたかゆき)落款」「鉄舟居士(てっしゅうこじ)落款」の部分です。
閻魔堂の扁額の落款は消えかかってしまっていますが辛うじて読めます。
山門と閻魔堂の「正四位山岡鐵太郎書」は同じ署名ながら書体に違いを比較して見みられる楽しみがあります。



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